―――始まりの音色―――

心地良い音が響く。
母なる海を思わせるような
父なる大地を思わせるような
果てない蒼穹の空のような
――或いは星が紡ぐ夢のような
そんな曇りの無い澄み切った音。
音色は歩く少女の胸元の鐘からだった。
「一体、何のつもりなのか…」
歩みを進める少女は深い海色の髪をかきあげる。
「何もなかったら、文句の一つ位言ってもばちは当たらないな。」
先程の出来事を思い出しながら少女、海雪は呟いた。

+++

海雪は夏が大嫌いだった。
汗で髪が肌に貼りつくのが嫌。
まとわりつく湿気と熱気が嫌。
言い出したらキリがないほど嫌な理由が多かった。
故に、この季節はすこぶる機嫌が悪かった。
だから、寮にすんでいる彼女にとって、
授業が無いこの時期には寮で涼みながら過ごすつもりだった。

………だったのだが

「あなたが海雪?」
突然の予期せぬ訪問者だった。
おっとりとしたあどけなさを残した女性。
亜麻色の髪はゆるやかにウェーブしていて、紫の瞳は慈愛に満ちているように見える。
魔法学校ウィルオウィスプの教師の一人。
確かマドレーヌという人だと、海雪は思った。
でも、彼女はどうしてここにいるのだろう。
確か、今日は臨海学校初日。
参加するつもりの無い海雪にとってはどうでも良い事だが、
彼女は臨海学校にて、統率者を務めるという重要な役割を受け持っているはずだ。
―なのに、どうして?それ程、重要な何かがあったとか?―
「そうですが、何の用でしょう。」
若干暑さで苛立ちながらも、対応する。
しばしマドレーヌは海雪を見つめると。
「そう、あなたが…校長先生が呼んでるわ。
職員室まで一緒に来てもらえるかな?」
「今日じゃなきゃ、いけない事ですか?」
出来れば外には出たくない。
開いた扉の外からは、夏の熱気と日差しが見て取れる。
こんな中を好き好んで外出するほど、酔狂な人間では無い。
そんな気持ちから口を突いて出た言葉だった。
その言葉に、気を悪くした様子も無く彼女は答える。
「そうよ。今日…いいえ、今からじゃなきゃいけない。
でなければ、何も変わらずじまいだから。」
今までよりも、強くはっきりとした声だった。
「…変わらず、じまい?一体、何の事なんです?」
「いけば自ずと分かるわ。
あなたが今、決めるのは行くのか、それとも行かないのかよ。」
呼びに来ておきながら、何故今更選択させるのだろう。
そんな疑問が海雪の頭をよぎる。
だが、それ以上に行かなければならない気がしていた。
夏の暑ささえも、忘れさせるような、何かを感じた。
「行きます。」
凛とした声で海雪は告げた。
その時、マドレーヌの顔に浮かんだのは、或いは安堵だったのかもしれない。

職員室に辿り着くと初老の紳士、グラン・ドラジェが待っていた。
外とは違い、職員室は幾分か涼しく、海雪は少しだけ機嫌を良くした。
「暑い中、わざわざ来てもらってすまんの。」
だったら、呼び出さないで欲しい。
当然の如く、そう思った。
「さて、実は君に臨海学校に参加してもらいたいのじゃ。」
「…臨海学校!?」
冗談でも聞かされたような面喰った顔になる。
臨海学校の『り』の字を聞いた時点で、不参加を決めていたというのに。
よりにもよって、仰々しく呼び出して用件が臨海学校とは―馬鹿げている。
「変わるのじゃよ。そして君は知る事になる。己について。
参加しなければ、何も変わらぬ。敢えて行かぬのも、一つの道じゃ。」
「だけど、変化を恐れてはあなたは前に進めないわ。」
二人の教師の言葉、もどかしさを感じる。
その時、目の前に居たのは唯の教師ではなく、偉大な魔法使いであると、後に海雪は知った。
「その言い方は、ずるい。」
これでは、参加しなければこの先、死ぬまで気になるだろう。
或いは、後悔する日すら訪れてしまいそうだ。
「…参加するんじゃな」
「それしか、ないじゃないですか。」
きっと睨みつけると、校長は申し訳なさそうな表情になった。
小さな声で「すまんな」と告げてから彼は続けた。
「…ならば、バスに乗る前にマドレーヌ先生の担当する教室へ行きなさい。」
「は?マドレーヌ先生の教室?」
マドレーヌは海雪の担任ではなかった。
よって、彼女が教室に行く理由なんてどこにも見当たらない。
脈絡無く、言われた言葉に思わず聞き返す。
「そうじゃ。さぁ、行っておいで。」
理由を述べず、ただ彼は頷いた。 その瞬間の校長は、子供を送り出す父のようなやさしい表情をしていた。

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